泉山ヒュッテ


ここに紹介する記録や文章は,津山高校山岳部旧顧問の故近藤春男先生が残された「泉山ヒュッテ記」をもとに作成しました。

はじめに

苫田郡奥津町と鏡野町の境に稜練をもつ「泉ケ山」(北峰,1209.1m)の南峰(井水山または射水山,1167.6m)のすぐ近くに,年中,水の絶えることのない泉が湧いている。そこに「津山高校,泉山ヒュッテ」か建っている。

沿革

昭和33年9月
当時の山岳部の生徒が「泉山の泉のそばに,ヒュッテを建てよう」という燃えるような情熱と執念が.ヒュッテ建設の発端となった。当時,新校舎建築で取り壊されることになっていた建物の一部,約4坪分の廃材を泉山に移転し,山小屋として津山高校山岳部の訓練基地にしようというのである。
解体作業,資材運搬,建築作業には,多くの困難な問題があったが,学校当局の積極的な協力体制と援助のもとに,山岳部の生徒の夢は実現に向けて始動しはじめたのである。
資材運搬は,鏡野町「中林ノ谷ルート」が使われたが,山岳部の呼びかけで集った男女合せて30名を超す協力生徒,鏡野町観光課や地元の大町青年団,教員有志の全面的な協力によって,困難な荷上げ作業は克服されたのである。

昭和33年11月3日
小屋の完成。小屋の規模は,13.2u,10名収容の小さなヒュッテではあったが.県下の高校のもつ山小屋としては,唯一のものといってよかった。お粗末な山小屋ではあったが,建設に青春の情熱を賭けた彼等にとっては,歌の文句の通り,それは「黄金の御殿」であったに違いない。    当時の成美学園新聞の記事はこちら。[PDF 14KB]

昭和38年
夏国体の県予選が泉山を会場に行なわれる。

昭和38年9月
風雪と放牧牛の侵入で,かなり損傷したヒュッテの大修理が,地元の方々の協力をいただき,当時の登山部員で行なわれる。

昭和46年
12年余りの風雪に耐えてきたこの山小屋も,遂に寿命尽きて倒壊した。

昭和47年
泉山ヒュッテ第二代目の全面的な再建計面の立案がなされ,津山高等学校長,津山山の会会長の名において,地元鏡野町,奥津町に対して,山小屋の建築協力要請の陳情が行なわれた。

昭和48年春
前の陳情に対して,鏡野町,奥津町から財政措置の内示があり,これを契機として,山小屋建設の具体化の諸手続きと作業が,着々と進展していった。建築は,院庄林業株式会社が当ることとなり,建築資材は,津山営林署の特別の計らいで,改築予定地付近の国有林の立木払い下げによる現地調達とすることに決まった。
敷地面積,約10坪に建てられる山小屋の建築構造は,丸木,掘立て,平屋造り.トタン葺きとし,中には,奥行き2m程度の棚を作ることとした。建物面積は21.7u,約6坪で,収容人員15名〜20名の,最初の小屋の約1.5倍のものが計画された。

昭和48年5月
末現地調査が行なわれる。

昭和48年7月
末桧,から松を主とする立木伐採が行なわれる。

昭和48年8月21日
建築工事が開始される。

昭和48年9月25日
再建工事竣工。

昭和48年9月26日
引き渡し式が行なわれ,「津山高校,泉山ヒュッテ」の看板が掲げられる。すでに述べたように,この山小屋は,地元鏡野町,奥津町,津山営林署並びに院庄林業株式会社の格別な援助と奉仕により再建されたものであり,総工費約58万円は,鏡野町,奥津町,津山高等学校の財政負担において支出されたものである。

昭和58年11月
末山小屋か再建されて10年,特に屋根の損傷が激しく,雨漏りによる材木の痛みが進んできた。これ以上,放置できないと判断されたので,秋の深まりも極まった大修理が行われた。この時は,屋根の全面葺き替え,床板の補修,屋根の明かり取りの取り付けが,主なものであった。波トタン,床板等の資材の荷揚げは人力によるほかなく,津山高校の呼びかけで,津山工業高校,勝間田高校,津山高校を中心とする美作地区高校山岳部員の協力を得て行われた。

昭和61年10月
傷みの激しかった柱,梁各1本,側壁の一部取り替えが,奥津町「小林木材」の好意によって行われている。

昭和62年10月末
泉山を舞台に,第27回中国高等学校登山大会が行われる。

平成4年3月中旬
この年から,毎年3月の残雪期に津山高校山岳部員の手によって,小屋の清掃,補修が行われることとなる。

平成9年3月
傷みの特に激しかった北面の屋根の全面葺き替えがなされる。部員たちが波トタンを背負い,残雪の残る山道を黙々と登っていく姿は,過去30年の間に行われてきた修理風景と同じであったろう。

平成9年
鏡野町・奥津町による泉山一帯の自然公園整備事業の一環ということで「泉山ヒュッテ」の全面建て替えが計画される。津山高校の山小屋としても今後使用していきたいということで,津山高校山岳部も募金活動を行いOB,OG,旧顧問などから多数の協力を戴く。

平成9年12月
第三代「泉山ヒュッテ」が完成する。建築面積24uで収容人数20人の小屋である。ヘリコプターで運搬した太い丸太を組み合わせた外観はまさにログハウスである。内部の床は全面板張りとなっており,その奥側半分は2段ベッド構造である。入口には「泉山ヒュッテ」の新しい看板が山岳部員の手によって掲げられた。

おわりに

これまで述べてきたような「泉山ヒュッテ建設の経緯によって,昭和33年以来,「泉山ヒュッテ」は,第三代の姿で今日に及んでいるが.その維持管理は,津山高校の山岳部があたってきている。直接的には,山岳部が常時,小屋の状態を把握し,補修に当っているが,それに伴う経費については,学校の援助を得てきたことはいうまでもない。

しかし,大がかりな修理の場合には,美作地区の高校山岳部員の生徒諸君や地元の方々の援助や協力を載いてきていることも忘れてはならない。骨身おしまず,このような協力が得られてきた背景には,「私たちが利用する山小屋だから」とか「私たちが愛し親しんでいる泉山にある山小屋だから」という思いが,泉山を愛する皆さんの心の根底にあることを確信している。
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